御子柴進

1964.6.29生
83-97阪神
251試合
18勝26敗2S
250奪三振
防御率3.30
●タイトル


 82年ドラフト4位で松本工業高校より阪神に入団。高校時代無名だったがプロ1年目に初勝利をあげている。小さな始動からややアンダー気味のサイドスローでなげ、綺麗なフォローをとる。調度同チームの小林繁がアンダー気味のサイドスローであったため、「小林二世」と呼ばれた。しかし投球内容は小林とは全く違っている。武器はコントロール。直球は130kmが精一杯。横からあまり曲がらないながらもシュートスライダーカーブで打者を揺さぶり、読みをはずしながら最終的に打者を罠にはめて内野ゴロをとる。コントロールの良さと生真面目な性格からか、若いうちから監督を問わず便利屋的使われ、ローテーションの谷間に先発、普段は中継ぎ、抑え投手疲労時は抑え、勝負所ではワンポイント、先発投手が崩れたらロングリリーフ、投手を使い果たせば敗戦処理と、困ったときは御子柴が登板した。特に87年の42試合と93年の41試合が際だっている。
 94年オフついに勤続疲労が飛び出し肘肩を故障。以後は故障との戦い。96年引退勧告を受けたが50%以上の減俸で残留。97年を最後に引退している。
 チーム好調時には中継ぎをつとめることが多かったため一般的には中継ぎ投手と言うイメージ。新聞などで代打屋の「一振り人生」にかけて「ひとほり人生」とワンポイント投手としての活躍もたたえられたりもしていた。
 だが、御子柴が最も魅力あるピッチングをしたのは先発した時。コントロールと配球でコツコツと打者を打ち取る姿は大投手の風格があった。がそれも6回まで。5回まで完璧に抑えていた相手でもスタミナが切れて握力が無くなってくると微妙なコントロールが狂いだし長打をくらう。先発時の6、7、8回の失点率は以上に高かった。
 もう少しチームに余裕があり、キチンと育成し、限定した使い方をしていれば伝説的投手になっていたかも知れない。
投手の数が絶対的に不足していた80年代〜90年代の阪神を象徴している選手。

 引退後は2002年まで阪神2軍コーチをしていた。
 

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