鈴木啓示

1947.9.28生
66-85近鉄
703試合
317勝238敗2S
340完投
78無四球
3061奪三振
防御率3.18
●タイトル
最多勝(69,77,78) 防御率1位(78) 勝率1位(75) 最多奪三振(67-72,77,78)

 育英高校2年時、阪神から契約2000万円という条件で入団を誘われている。
鈴木もすぐに高校を中退して入団するつもりだったが、高校の教師と両親の猛反対に遭って断念。翌年、センバツ大会で甲子園に出場し、ドラフト前も阪神が最も熱心に来ていたと。
しかし65年ドラフト一期生としてドラフト2位で近鉄に入団。デビュー1年目の66年10勝、2年目67年21勝し一躍近鉄のエースとなり
69年の24勝を筆頭に、67年から5年連続20勝をマーク。67年から72年まで6連連続奪三振王となっている。
しかし72年から14,11,12勝、奪三振数も激減。当時の10勝と少しと言う成績は決して誉められたものではなく、鈴木啓示は消え行く選手の仲間入りをしかけていたと言っていい。
74年転機が訪れる。近鉄の監督が阪急ブレーブスを無敵の軍団に仕立て上げた西本幸雄に交代する。西本はストレートを痛打される鈴木を「技巧派を見習え。」とベンチで叱り飛ばす。
ついに鈴木はたまりかねて阪神へのトレードを志願。現代なら、ここで大型トレードが成立するところであるが、西本と近鉄は鈴木を手放さなかった。
西本は執拗に「チームが勝ってこそのエース」と叱り続けた。ついに鈴木は西本の執念が自分の野球人生を考えてのことだと言うことに気付き、技巧派へ転向する。
75年再び20勝をあげエースに返り咲き、78年10試合連続完投勝ちの日本新及び通算63完封のパ・リーグ、タイ記録を樹立。この年25勝で最多勝、奪三振、防御率ベストナインの4タイトルを取る。
ついに79年プロ野球のお荷物とまでいわれた弱小チーム近鉄は西本幸雄監督の元リーグ優勝を果たす。鈴木は10勝ではあったが優勝に貢献した。
続く80年もリーグ連覇、鈴木は14勝。
85年7月9日対日本ハムにて3回ノックアウトされ翌日引退。
同世代の山田久志や村田兆治と違い、西本が当時としては比較的ゆったりしたローテーションを組んだ事が数々の大記録を生んだと言われている。
徹底した走り込みと投げ込みで非常に安定したフォームを体に染み込ませ、抜群のコントロールを武器に弱小球団を支えた大エース。
座右の銘である「草魂」。引退当時にTVCMに出演して言った言葉「人生、投げたらあかん。」
まさにそのままの野球人生である。


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