平松政次

1947.9.19生
67-84大洋
635試合
201勝196敗16S
2045奪三振
防御率3.31
タイトル 最多勝(70,71) 防御率1位(79) 沢村賞(70) ベストナイン(70,71)

 65年岡山東商業のエースとして選抜高校野球大会出場し、4試合連続完封勝利という記録を作り決勝進出。決勝では藤田平(阪神)のいた市立和歌山商業に延長13回サヨナラ勝ちで優勝。夏は初戦敗退。同年のドラフトで中日ドラゴンズ4位指名を拒否、日本石油に入社。66年、都市対抗に出場し優勝。67年大洋ホエールズ(現:横浜ベイスターズ)ドラフト2位で入団。
 高卒時に中日の指名を拒否したのは熱烈な巨人ファンだったからで、67年大洋入団時も一年間だけあこがれの長嶋茂雄の背番号「3」をつけている。
 1年目3勝、2年目5勝。アマチュアでは通用したストレートだが、プロでは簡単に痛打され、2年目のオフ、シュートに磨きをかける。これが平松を大投手へと変えた。
3年目の69年おぼえたてのシュートが炸裂し14勝。70年にはスライダーをおぼえて25勝19敗防御率2.39。最多勝と沢村賞を獲得。セ・リーグの強打者のバットを折りまくったシュートは「カミソリシュート」とよばれた。以降肩の故障もあり球威が落ちたあとも「カミソリシュート」で80年まで12年連続二桁勝利を続ける。
 巨人ファンの野球選手が巨人戦に闘志を燃やすことはよくあるが、そのなかでも平松のそれは際立っていた。通算の巨人戦成績が51勝47敗。歴代2位の勝ち数だが1位の金田正一は65勝71敗と負け越しており、勝ち越した投手の中では1位。とくに長嶋茂雄は平松のシュートが打てずノイローゼになってしまった。
 一方、72年オフに故障した肩が慢性化してしまい、度々戦線離脱。おまけに風邪を良くひいたり、広島市民球場ではまったく勝てなかったりと脆さも併せ持っていたことからしだいに「ガラスのエース」と呼ばれることとなった。
 そうしながらも弱小球団であった大洋で投げ続け、83年10月21日後楽園球場にてついに200勝を達成。5回1/3を投げた時点で雨によるコールドゲーム。雨の中ガッツポーズをし、胴上げされる姿は、見た目の華麗さでは感じ取れないすがすがしさがあった。
結局翌年の84年、1勝しかできずに引退。

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