村田兆治

1949.11.27生
68東京
69-90ロッテ
604試合
215勝177敗33S
2363奪三振
防御率3.24
●タイトル
最多勝(81)、最優秀防御率(75,76,89)


サンデー兆治

 67年、生粋の広島人で大の広島ファンであったがドラフト1位で東京に指名される。入団当初から150kmの直球を投げていた。デビューも69年5月23日、強い南海相手に初先発初完封勝利と鮮烈。ストレートは一級品。 ただ、コントロールの悪さも一級品。しかも、変化球は投げられない。当然勝ち星はあがらなかった。
 二年目にチームはロッテに買収され、それと前後する形で当時まだマイナーだった変化球フォークの練習を始める。71年、フォークボールを会得しピッチングに幅ができると12勝をあげる。同時に打者に対しフォークボールをギリギリまで隠すために右腕をふくらはぎの後ろに隠れるように地面近くまで降ろし、そこからまさかりを振り下ろすように豪快に球を投げ下ろすフォームにした。このフォームは「マサカリ投法」と呼ばれたが、村田はあまり好きではなかったらしい。
 直球、フォーク、見づらい投球フォームを駆使し71年から81年までの11年間で二桁勝利7回。特に81年は19勝8敗で最多勝。74年にはロッテ初の日本一に12勝10敗防御率2.69の成績で貢献した。
 82年5月近鉄戦にて肘痛を訴えて降板。以後原因不明の痛みと戦うも一向に状態は好転せず、83年8月渡米。ジョーブ博士の診断により腱が切れていることが発覚。左手首の筋を右肘に移植する大手術となった。
 84年8月2年半ぶりに公式戦登板。翌85年は当時としては異例中の異例、日曜日限定中6日で先発登板。開幕から11連勝し「サンデー兆治」と呼ばれる。この年17勝5敗。カムバック賞を受賞した。
 89年には防御率2.50で三度目の最優秀防御率及び通算200勝達成。90年10勝をあげるも「納得いく球が投げられない」と言って40歳で現役引退。
 通算暴投記録保持者でもあり、148は二位の川口和久の79を大きく上回っている。
フォーク会得の際、フォークボールの師である村山実同様、一升瓶を右手人差し指と中指の間に挟み、持ち上げて指の力を鍛えていた。

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