野村 克也

1935.6.29生
76-84南海
85-86ロッテ
87-91西武
捕手
右投右打
3017試合
10472打数2901安打
657本塁打
1988打点
1478三振
打率.277
●タイトル他
首位打者(65) 打点王(62-67,72) 本塁打王(57,61-68) ベストナイン19度(56-68,70-73,75,76) オールスター出場21度(57-68,70-77,80) ゴールデングラブ(73) MVP5回(61,63,65,66,73)

 日本プロ野球史上屈指の大選手であり、名監督。
京都峰山高校から全く無名のテスト生として南海に入団し、26年間現役として数々の大記録を打ち立てた。 一軍に定着したのは3年目51年のシーズン。バッティングポイントを当時主流だった位置より極端に手元に手元に移動させたことにより打球に飛距離が付く。129試合にマスクをかぶり、打率.252、7本塁打54打点。52年には30本塁打で初の本塁打王に輝く。 その後65年戦後初の三冠王を達成するなどプロ野球代表するスラッガーとして活躍する。
一方守備でも捕手と言う職業を変えてしまうくらいの功績を残した。
当時捕手は投手の投げる球を捕る壁。「大きく構えて、投手の投げやすいように。」「捕球は大きな音が鳴るようにミットを構える。」などの技術しかなかった。
そこへ野村は現在では当たり前になった「インサイドワーク」を導入する。ようは配球術なのだが野村はスコアラーから綿密なデータを受け取ると、それを元に「内角高めの速球で相手を起こし、外角の変化球で打ち取る。」「嫌いなコースを徹底して攻め、勝負球は好きなコースの変化球」といった「打ち取るための配球」を導き出す。
さらに野村はインサイドワークをより引き立てるために心理的効果を狙った「ささやき戦術」を行った。今日の調子、打者が待っているであろうねらい球、どこで仕入れたのかは不明だが私生活の醜聞など、キャッチャーズボックスから相手打者に向かって「ささやく」。打者は困惑してしまい野村のてのひらの上で踊ってしまう。そんな中チームもメキメキと強くなり64〜66年にパリーグ三連覇を達成する。
70年、師でもある鶴岡一人の後を受け現役捕手のまま監督就任。監督、捕手、四番と戦術、守備、攻撃の要を任されると言ったとんでもない人事だがここでも野村は、野球を変えて見せた。
前年までの一番打者ドン・ブレイザーがコーチに就任すると、共に「考える野球」を提唱。
スコアラーから得られる試合の実績、データをもとに守備、走塁、打撃において「現在何が最も適切な行動か」を分析し考え抜き、そして最も確実な選択をするという後に「ID野球」と呼ばれる野球理論を構築する。野村が考えた理論を選手達が実践し検討する。選手たちも新しい理論を吸収し、また選手から新しい理論が生まれる。当時の南海ベンチは「野村野球学校」であったと言っても過言ではない。
また江夏を初めとする他球団で「やっかい払い」もしくは「用無し」となった選手を次々に獲得し、活躍させ、「野村修理再生工場」と呼ばれた。
しかし77年オフ、婦人の現場介入を理由に突然解雇。
これに激怒した江夏、柏原らは一時立てこもり「野村がいないなら出て行く!!」と無理矢理トレードに持ち込んだ。当の野村は「生涯一捕手」を標榜し、金田正一率いるロッテに入団。79,80年は西武に在籍し、松沼兄の女房役として現役最後に存在感を示し、そのまま引退した。
引退後はテレビ朝日、サンケイスポーツの解説者となる。
ここでも野村は「新しい解説者」を開拓した。
自慢話や愚痴、結果論、根性論は一切口にしない。アナウンサーからふられたことに対して的確且つ論理的に答える。新しい野球の見方を視聴者に植え付け、野球界きっての理論派として通る。
90年よりヤクルトの監督に就任。9年間現場を離れることによって更に磨きをかけられていた「野村の理論」はヤクルトで「ID(ImportantData)野球」として花開く。眼鏡の捕手という常識破りの古田敦也をルーキーながらチームの中心に据えると一気プロ野球を代表する捕手になる。古田と共にチームも急成長し、3年目の92年阪神とのデッドヒートの末14年ぶりにリーグ優勝させ、93年は日本一。
ヤクルト監督を通算9年勤めリーグ優勝4回、うち日本一3回。
大切な試合、落とせない試合、になるほど選手達が活きのいい動きをし、優勝に絡めば必ず勝ち進んでいった。
99年、ヤクルト監督を勇退する形で辞任。その後すぐに阪神からの誘いを「球界に対する最期の奉公のつもりで」と快諾する。
しかしこの阪神が野村にとって最も多難な野球生活となる。
万年最下位の阪神には「勝てない原因」が無数に存在した。的はずれな補強をする球団首脳、野球の初歩を理解していない選手達、球団の内紛を煽るマスコミ、そして野球を知らず、阪神中心の価値観しか持たずただ騒ぎ立てるだけのファン。
監督を引き受ける際「ヤクルトよりはましだろう」と考えていたが、ヤクルトをはるかに越える病巣の深さだったのだろう。
やっと選手に野村野球が浸透した三年目2001年オフ、婦人の脱税問題を理由に阪神を解雇。
現在は社会人「シダックス」の監督を務め、ここでもチームの意識を変えた。

野球が好きで好きでたまらない、野球の虫。


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