関根潤三

1964.1.15生
50-64近鉄
65年読売
投手・外野手
左投左打
・投手成績
244試合
65勝94敗
645奪三振
防御率3.42.
・打撃成績 1417試合
4078打席1137安打
59本塁打
424打点
30盗塁
打率.279

法政大学時代はエースでキャプテン。
当時は六大学野球の方がプロ野球より動員があり、 神宮のスタンドが7割ぐらいの入りだとヤル気がなく、調子が悪かった。
昭和24年10月、戦後初の日米親善野球の際対サンフランシスコ・シールズ戦(3A)においてプロチームがアッサリ6敗したのに対し、六大学選抜チームの先発をつとめた関根は 延長12回を投げぬき、最終回でサヨナラで負けるも一躍有名になる。
当時は練習で毎日300球を投げていた。
50年プロ野球が2リーグに分裂。それにともなって創設された近鉄に入団。新設球団ゆえ負け数が多かったが、
4年目の53年から3年連続、2ケタ勝利を挙げた。身長173cm体重65kgと小柄だが、左腕から切れのいいボールを小気味よく投げ込んだ。
 1957年4月福岡の西鉄戦で決め球である右打者のひざ元への速球を打たれ、それをきっかけにKOされると、その夜宿舎で芥田武夫監督に対し一方的に打者転向を宣言。しかも、「クリーンアップを打たせてください」と要求した。
芥田は3試合のチャンスを与え、ダメなら2軍と約束する。
帰阪後の阪急3連戦で5番右翼にて野手デビュー。4打数3安打、4-2、5-3と打ちまくり、これをきっかけに3番に定着してフル出場し打率.284。打撃ベストテンの9位に入り、打者転向の成功を内外にアピールした。
65年読売へ移籍。主に代打として活躍し、同年引退。この最後の1年が関根にとって大きな衝撃となった。常勝巨人においてスター選手であった王、長島が死に物狂いで練習をし、
若手選手が触発されてさらに練習をしている。「オレは近鉄の後輩に何を残したのだろう。」と。
引退後は読売のコーチを経て、82-84大洋、87-89ヤクルトの監督を歴任。現役時代の激情の面影はすっかり消え、
温厚な人当たりのよい監督となった。
同時に何も残してやれなかったと感じた近鉄には深い愛情を持ちOB会の会長を勤めている。
投手野手の両方でオールスターに出場しており、これは唯一の記録。


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