篠塚和典

1957.7.16生
76-94読売
二塁手
右投左打
1651試合
5576打数1696安打
92本塁打
628打点
55盗塁
132犠飛
打率.304
○タイトル
首位打者(84,87) ベストナイン(81,82,84,86,87) ゴールデングラブ賞(81,82,84,86)

 74年銚子商業2年次に三塁手として春夏連続で全国大会出場し夏は優勝。
75年は湿性肋膜炎で入院。ドラフト前にも再発しており選手生命を危惧されていたが、長島監督が1位で指名。
V9後の読売でポスト土井と期待される。一軍に定着したのが79年。81年、原辰徳の入団。原のポジションはサード。
当時読売のサードは若手の成長頭中畑清。読売首脳陣は原をセカンドにコンバートさせ、篠塚をベンチに置く。
しかし5月4日、中畑が試合中に故障。原はサードに戻り、篠塚はセカンドでレギュラー出場できることとなった。
このシーズン篠塚は打率.357でベストテン2位。以後85年まで5年連続で3割、うち84年には待望の首位打者に輝いた。
87年には.333で再び首位打者。守備も華麗で堅実。ダブルプレーの際スライディングしてくる一塁走者を飛び越え一塁へ送球する姿は、敵味方関係無く見るものすべてに強烈な印象与えた。
81年からベストナイン、ゴールデングラブ賞の常連。
ただ打線の中においては少々扱いにくかった。細身の体からも想像できる通り、ホームラン等の大きな物は期待できず、クリーンアップには向かない。
1番に置こうとすると決して速くはない足がネックとなる。結局は最強の2番打者と言う位置付けとなる。
しかしボールにバットを乗せるという技術は一級品。いつも夏場に持病の腰痛に悩まされ打率を急降下させていた。
それがなければ日本初の4割打者となっていたかもしれない。それほど天才的な打者だった。


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