今回は株式会社クボタの二ノ丸友幸さん。東大阪市出身のスクラムハーフとしてプレーし、高校日本代表、クボタスピアーズの元トップリーガー。現在、課長として広告宣伝を担当されています。さらに週末は全国各地を飛び回って、日本ラグビー協会のリソースコーチとしても活躍中。
今回は、二ノ丸さんのお仕事と現役時代のお話についてうかがいます。
現在の仕事内容
−−現在のお仕事を教えてください。
二ノ丸 株式会社クボタの社員です。企業ブランディングを担当していて、主にテレビCM制作、CM投稿、新聞、雑誌、看板掲出など媒体を利用した広告宣伝活動を行っています。
−−クボタの名前は相当知れ渡っていますが、なおブランディングなんですね
二ノ丸 名前は知っていても、何をしている会社か具体的に知らない人はまだいらっしゃいます。それにアジア・ヨーロッパなどグローバルな視点でもブランディングをしていく必要があります。
−−すごく大きなお仕事ですが、今の部署は長いのでしょうか
二ノ丸 実は昨年9月からなのでまだ半年も経っていません。それまでは、入社から法務部や法律に関連する部門にいました。社内で起こる法的な問題や制度などを解決する仕事です。
−−難しそうなお仕事です
二ノ丸 大学では商学部だったので、会社に入ってからは常に勉強しています(笑) 知識がないとできない仕事ですし、当時の上司が「ラグビー部の社員であってもしっかり仕事をさせ育てる」と考えてくださって、成長できました。
プレイヤーとしての実績
−−ラグビーはいつからはじめましたか
二ノ丸 小学生の頃は、阪神タイガースの帽子を常に被る野球少年でした。小6の時に受験勉強の息抜きにと、家のすぐ近くの花園ラグビー場で啓光学園が優勝したのを見て「このスポーツしかない」と思い、志望校を啓光学園中学に変更してラグビーを始めました。
−−小学生ながら、すごい決断力です
二ノ丸 ものごごろついた頃から親に「自分で考えて、目標を立て行動しろ」と言われていました。啓光中に入学後は、目標に同志社大学進学が追加。同志社の試合が花園であるときは必ず最前列で、かぶりつきです。よく花園で手すりをくぐって見入っている少年がいますよね。そんな中学生でした(笑)
−−その後は高校JAPNを経験され、夢の同志社大進学ですね。
二ノ丸 指導者に恵まれました。SHとしての適正を見いだされ、自ら考えることを教えられました。高校JAPANはアキレス腱の故障で辞退。同志社大に進学も、1年の数試合と4年時に試合に出ただけで、2年と3年は怪我との戦いでした。
大学卒業後にNZへ短期留学。地元チームのレギュラーとなり新聞で取り上げられた。
−−大きなけがを経験されてラグビー人生に影響がでましたか
二ノ丸 大学4年間は記憶から消してしまいたかったです。卒業後はカネカに入社しましたが1年目の途中で廃部。2年目からクボタに移籍して2年間の、計3年。昔を知っている方からは「面影がない」などと言われたりもしましたね。でもその挫折があるから今があります。あのまま順調に階段を上っていたら、仕事もコーチもうまく行っていなかったかもしれません。
−−波瀾万丈の現役時代、あの頃の自分に何か言いたいことはありませんか
二ノ丸 「余裕」と「ゆとり」がなかったように思います。試合に出たいという焦りやストレスばかりが先行していましたね。もう少し、けがに対して予防、体作り、メンテナンスなど自分の体と向き合い、足りないところの強化をするように言いたいです。
次回は二ノ丸さんのお仕事についてうかがいます。
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