2007年、フランスで行われたワールドカップの最終戦となったカナダ戦。日本代表の連敗記録を止めた試合終了直前の同点コンバージョンを蹴ったのは、東大阪市出身大西将太郎でした。
今回は、2015-16シーズン限りで現役を引退した大西将太郎さんに、ラグビーをはじめた少年時代のことや東大阪への思いなどをお聞きしました。
同志社に憧れた少年時代
− 石切で育った将太郎少年と、ラグビーの出会いはどんな形ですか。
大西 東大阪で育ったので、いつかはというのはありました。でもはじめたのは小学4年生の頃です。
− きっかけはなんですか?
大西 布施ラグビースクールができたんです。創設1期生っていいなって思って、入りました。
− 東大阪なら、他の2スクール(東大阪ラグビースクール、花園ラグビースクール)がすでにありましたよね。
大西 やるなら1期生。今になってはよくわからないんですが、そこにひかれました。
− それまでもスポーツはしていたんですか。
大西 サッカー、水泳他にも毎日習い事をしていました。サッカーは、ラグビーのキック力をつけるために、水泳は体力をつけるために、などと考えながらですね
− ラグビーをやってなかったのに、ラグビーのことを考えながらですか?
大西 はい。いつかオレはラグビーをやる。その時のために、力をつけるんだ。と(笑)
− まさにラグビーの申し子。徹底していますね。ラグビーを始める前からラグビーのために習い事をする男です。その後、啓光学園中学に進学します。
大西 第一志望は、同志社香里中学に進学したかったんですけどね。同志社に憧れすぎて(笑)
− 関西で中学受験をした人ならわかりますが、同志社香里中学って結構ハイレベルな進学ですよね。
大西 行くって決めて、親にお願いして塾に通いましたよ。でも、受験なんで。結果うまく行かず、いろんな人からアドバイスを受けて「啓光はどうか」と。
− 回り道をされたんですね。
大西 これが、回り道じゃなかったんです。ラグビーの基礎的な技術も含めて、人間的な教育も中学生の時にしてもらえた。
− 多感な時期によき指導者と出会えた。
大西 例えば、僕はBKですけど「FWがどれだけしんどい目をしてボールを確保してくれたと思ってるんだ」とかですね。
− いい仲間とも出会えましたもんね。それにしても、東大阪・石切から枚方市の啓光学園まで。通学が大変そうです。
大西 遠かったです(笑)あと、朝に石切駅まで上り坂を歩くのがしんどかったです。途中から新石切駅から通えるようにもなったんですが、東大阪に住んでいながら途中下車もせず。京橋から京阪に乗るんですが、毎日時計台の前で仲間と待ち合わせをしていた感じです。だから、近鉄でプレーするまで、東大阪のお店とか全然知らなかったんですよ。
− 近鉄時代は花園周辺のお店にもよく行かれてたんですよね。
大西 もちろん、練習があるのでお昼ごはんはよく食べていました。以前週ひがさんにお蕎麦屋さんを推薦した記憶があります。
− 2010年の「るるぶ東大阪市」の仕事の際ですよね(笑) おぼえてくださっていてありがとうございます。
大西 他のお店もまんべんなく。どのお店の方も応援してくださっていたので、なるべくたくさんのお店に行きたかったんですよ。
− 今は東大阪にお住いではないんですよね。
大西 豊田自動織機時代は単身赴任です。家族は神戸で、母が石切に。東大阪に帰ってきた時はもちろん寄っていますよ。母には大変苦労をかけましたし。
− 支えてくださった。
大西 父が、僕が中学生の時に他界したんです。僕はもう私立の中学に入っていて、女手一つで同志社大学まで行かせてくれました。だから親孝行しなきゃって、ずっと思っています。今住んでもらっている家も、僕がプロになってから購入したものです。
お母さんのこと、ご家族のことを話す将太郎さんは、ラグビーのことを話す時とは違って優しい笑顔になっていました。次回は、トップリーガーとして、引退後についてうかがいます。
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